聖路加国際病院のインターンとレジデント、銀座の病院の外科部長と、順調にキャリアを積んだ平山登志夫さんの次の行き先は、どの駅からも遠い、千葉郊外の団地地区でした。ここから、医療と介護の本当の連携が始まります。制度も設備も整っていない50年近く前に、どのようにして連携をしてきたのか。そこには、平山さんのひたむきな思いがありました。
○●○ プロフィール ○●○
平山登志夫(ひらやま・としお)さん/平山病院 院長
1931年、千葉県生まれ。医療法人社団・社会福祉法人 晴山会理事長。55年日本医科大学卒業後、聖路加国際病院にインターンとして入局。以後同病院、銀座菊池病院に勤務。68年、千葉市花見川地区に平山病院を開設。病院を退院しても団地での生活が困難な高齢者を目の当たりにし、77年に特別養護老人ホームを開設。現在、千葉県を中心に病院、特別養護老人ホーム、介護老人保健施設、障害者養護施設などを展開。全日本病院協会常任理事、全国老人保健施設協会顧問。91年と99年に厚生大臣表彰。09年旭日双光章を受章。
医療法人社団・社会福祉法人 晴山会ホームページ
外科、内科、耳鼻科…あらゆる患者さんをみる
![現在の平山病院は166床。開設当時は23床と、救急病院としては最小規模といっていい。](https://www.kaigo-kyuujin.com/wp-content/uploads/2015/03/2_1.jpg)
現在の平山病院は166床。開設当時は23床と、救急病院としては最小規模といっていい。
――銀座の病院を退職されて千葉の花見川地区に引っ越しました。引っ越したその日に患者さんの列ができる、というのですから多忙な診療の日々だったのですね。団地の一室の診療所を経て病院が開設されたのはいつごろになりますか?
1968年に花見川に移り、病院が完成したのは1971年でした。当初は23床の小さな病院でした。救急の受け入れをする病院としては、本当に小規模です。それでも、どんどん患者さんはやってきます。当時はあちこちに工事現場があったので、事故に遭う人も多かったんですね。
救急は断らなかったのです。断れないんですね。うちがみないといったら、ほかにみる先生はいないのです。花見川地区の団地に入るような人は若い人が多いので、救急で運ばれてきても、10人中9人はそうたいした問題のない人たちです。
でも、中にはみなければいけない人がいる。救命センターもない頃ですから、知らんぷりをしているわけにはいきません。
救急車もそれを知っているので、どんどんうちに患者さんを運んできて、逃げるように帰ってしまいます(笑)。銀座の病院では外科部長でしたから、外科をみるつもりでしたが、そんなことは言っていられません。盲腸でお腹が痛いと運ばれてきた人が、着いてみたら、ストレッチャーの上でお産が始まったこともありました。眼底の血管をみたり、耳鼻科の鼓膜を覗いたりするのは、技術的にとても難しいのですが、「難しい」などと言っている場合ではありません。
こんなときに、「聖路加国際病院にいてよかった」と思いましたね。外科が専門だろうとなんだろうと、「どんな病気でもみられなければ医者ではない」と教えられましたので、対応できました。当時の勉強は本当に大変でしたが、その甲斐があります。昨今の研修医も、それぐらい勉強するといいですね。
――とはいえ、過酷ですね。健康を害されるようなことはありませんでしたか?
早朝から救急に対応し、外来の患者さんを見て、入院患者さんを回診すると夜10時になることもあります。当時、1階が外来、2階が病棟、3階が住まいだったのですが、3階の階段を上がったところで気が抜けて、階段の踊り場で眠ってしまったこともありました。
押入れで寝る患者さんを見て特養を開設
![現在の、特別養護老人ホーム晴山苑。当時、住宅街にあるこの特養は珍しい存在だった](https://www.kaigo-kyuujin.com/wp-content/uploads/2015/03/2_2.jpg)
現在の、特別養護老人ホーム晴山苑。当時、住宅街にあるこの特養は珍しい存在だった
――23床の病院ですと、入院が長引く患者さんがいらっしゃると、受け入れられない患者さんが出てきてしまいませんか?
そうですね。ですから、急性期を過ぎた患者さんは退院して、家で安静にしながら、元気になっていただければ一番ありがたいのです。病状が落ち着いている患者さんから、「往診をするから」ということで、退院していただきました。
「ハツさん」というお婆さんもそのひとりでした。脳卒中で倒れ、寝たきりになってしまいましたが、病状は安定し、もう救急病院にいる必要はなくなってね。少し心配でしたが、団地に帰ってもらいました。
けれど、あるとき、往診に行ったら、いるはずのハツさんの姿が見えません。「ハツさん!」と呼びかけると、答えるんです。どうしたのかと思ったら、驚きました、押入れで寝ているのです。
――押入れで……。脳卒中で寝たきりなのに、本当に気の毒ですね。
高度成長期にできた団地は狭くて、夫婦と子どもふたりでもいっぱいで、おばあさんが寝ている場所がない、という状態なんですね。そういえば、ハツさんは病院から帰りたがらなかった、こういう理由だったんだな、と思いました。
しかし、押入れではかわいそうだ、なんとかしてやりたい。とはいえ、病院に長くいてもらうこともできません。こういう人に必要なのは、注射や薬じゃなくて、生活の世話ですからね。要は、特別養護老人ホームのようなところに行くのがいいのです。あるいは、自宅に訪問介護や訪問看護がきてくれてね、お世話をしてくれればいいんですよね。でも、当時はそんなサービスはなかなか受けられなくてね。当時、花見川に近いホームといっても、養老渓谷という山の中しかありませんでした。視察にも行きましたけれど、交通の便も悪いし、お見舞いにもなかなか行けないような場所です。しかも、病気があったら入れないと言う。
困っている人が身近にいる、それならなんとかしなければなりません。そこで、1977年に特別養護老人ホームを、団地のそばに作りました。家内が聖路加国際病院でいっしょに働いていた看護師だったので、家内に利用者さんのお世話を担当してもらいました。
当時は、老人ホームでのお世話は、近所のおかみさんたちが自己流でやるようなところが多かったのです。しかし、ここでは、家内が医学の知識をもって世話をします。オムツ替えひとつ、食事のしかたひとつとっても、やはりプロの知識とテクニックは必要です。
「介護」という言葉さえなかった時代に、うちの特養では、「いいお世話」を目指して職員が働き、家内の知識やテクニックを学んで、快適に過ごしてもらう方法をどんどん学んでいきました。
――次回はさらに発展して、日本ではじめて介護老人保健施設を創設するエピソードをお伝えします。