認知症が深まっても「快・不快」の感情の記憶は残る
全国655カ所で運営されているという「認知症カフェ」。認知症を持つ本人、家族、支援者、地域住民などが交流する場です。2016年4月からは、認知症を持つ人がカフェに来られないとき、ボランティアがその人の自宅を訪問して話し相手をする事業が始まることになりました(*)。
訪問するのは、カフェで認知症を持つ人と親しくなったボランティア。「認とも」と呼びます。この「認とも」が、認知症を持つ人の家を訪れることで、本人や家族を支援しようというわけです。
「認とも」という名称、行政主導でやることなのか、など、介護関係者からは様々な声が上がっているようです。この制度の是非はともかく、顔見知りの安心できる相手と自宅で会話を楽しめるのは、認知症を持つ人にはうれしい試みになるかもしれません。ただし、それにはこのボランティアが、認知症を持つ人にとって、安心して楽しく話ができる存在となっていることが前提となります。
また、認知症カフェで会っていたボランティアが自宅を訪問したとき、訪問を受けた認知症の人にわかってもらえるのか。そう思う人もいるかもしれません。確かに認知症が深まると、違う場所で会ったり、髪型や着ている服が違ったりすると、同じ人だと見分けられないことがあります。訪問してすぐには、見分けることができないかもしれません。
ただ、認知症の人は、相手の名前や話した内容は忘れても、「この人と話をして楽しかった」という感情の記憶は保てるそうです。顔を見て話をすれば、「この人とは前にあったことがある」「そのとき、楽しく過ごせた気がする」とわかるのです。反対に言えば、嫌なことを言われたり、されたりすると、その「イヤだ」「不快だ」という感情の記憶が残るということです。
嫌な記憶の積み重ねが「拒否」を招く場合も
認知症を持つ人に、入浴をいやがる人が時々います。デイサービスなどでは、「家ではどうしてもお風呂に入らないので、デイサービスでは必ず入れてください」と頼まれることもありますよね。
これについて、ある認知症ケアの実践者は、不快な経験の積み重ねが入浴拒否を招いているのではないかといいます。たとえば、もともと寝る前に入浴する習慣があった人。その人に、昼間、日の高いうちから入浴しようといっても、そういう気分になれないことは十分考えられます。また、羞恥心の強い人の場合。ずっと一人で入浴してきたのに、突然、知らない人から風呂に誘われ、洋服を脱がされそうになったら、「やめて」というのは自然な反応です。
そうして、「気が乗らない」「やめてほしい」と思っている人たちに、何度も入浴するよう働きかけたらどう感じるでしょうか。そのうち、「お風呂に入りましょう」と言われるだけで、「イヤだ」と答えるようになります。そう声をかけてくる人のことも、拒否するようになります。最後には、デイサービスに行くこと自体をいやがるようになるかもしれません。
これは、いやがることを繰り返しやり続けることで、「不快」な感情の記憶を定着させてしまったからです。つまり、「お風呂は嫌なもの」「この人は嫌なことを言ってくる人」「ここは嫌なことをされる場所」という記憶が、拒否を招いたと考えられるということです。
認知症であることを意識せずにすむ場とは
したくないことを強制される。やりたいことを止められる。そんなことをしてはダメだと叱られる。認知症に限らず、誰でもそんなことが繰り返されたらイライラが募り、不満を爆発させたくなるかもしれないですよね。認知症が深まって記憶が曖昧になり、周囲の状況を理解する力が衰えてきた人であれば、なおのことです。
介護の現場では、介護する側の都合で、介護が必要な人たちを動かそうとすることがあります。それによって認知症を持つ人などが拒否や不満を示すと、「介護拒否」ととらえてしまうこともあります。まるで、拒否する側に問題があるかのように。しかし、よく考えれば、それは介護する側の対応に課題があり、介護される人は、人としてごく自然な反応をしただけであることも多いのです。
前出の認知症ケアの実践者は、認知症を持つ人を、特に認知症と意識したことはないといいます。誰でも、できることもあればできないこともある。できない部分をサポートするだけであり、自分が認知症を持つ人からサポートしてもらうこともある。それだけのことだ、と。
自分が嫌なことをイヤだというように、認知症を持つ人も嫌なことをイヤだというのは自然なこと。そう受けてもらえる「安心できる」場所、関係、人とともにあれば、認知症の人は、認知症であることを意識されずにすむのかもしれませんね。
<文:宮下公美子 (社会福祉士・介護福祉ライター)>
*「認知症カフェ」、自宅に出張 ボランティアが話し相手に (日本経済新聞 2016年1月3日)