2016年2月末、全国のケアマネジャー730人を対象に、担当している介護家族について尋ねたアンケート調査の結果が報道されました(*1)。それによれば、「殺人や心中が起きてもおかしくないと感じたことがある」というケアマネジャーが、なんと55%も。「介護者が心身共に疲労困憊(ひろうこんぱい)して追い詰められていると感じたことがある」というケアマネジャーは93%にも上りました。
追い詰められている家族に「対応できなかった」
ケアマネジャーが担当しているということは、介護保険のサービスをすでに使っているということです。それでも、これだけの介護家族が疲労し、追い詰められ、殺人や心中の可能性まで生じているというのは、衝撃的な事実です。介護関係者は、この事実を重く受け止め、何をすべきか、何ができるのかをもう一度考えていく必要があります。
この調査では、「(介護者が追い詰められていると感じていたが)対応ができなかった」という回答が約2割を占めていました。その理由は、「自分がどこまで関わればよいのか分からなかった」(54%)、「負担を減らすために使える在宅サービスがなかった」(43%)とのこと。しかし、それでもし、殺人や心中が起きたとしたら、ケアマネジャーや関わっていた介護関係者は、その事実を受け止められるのでしょうか。
「もっとできることはなかったのか」
長く自分を責めることにならないだろうかと思います。
支援を必要としている人と「出会った」責任
同じく2月、ある新聞にホームレスの支援をするNPO法人理事長を務める牧師のことが紹介されていました。約25年間の支援で、アパートに入居させるなど、自立させたホームレスは2000人以上。しかし中には、支援の手をこまねいているうちに自殺してしまったホームレスの人もいたといいます。そのホームレスの男性は、家族も見つからず、葬儀に参列したのは10人足らずでした。
その男性の人生を思い、この牧師はこう語ります。
「出会ったことにおいて私たちには責任が生じるのであり、このたまらなさを身に負うのだと思う。もし、私たちがその責任を感じない活動にとどまるなら、単なるお遊びで終わってしまう」
人の生活を、人生を支える支援とは、本来、それほど重い責任があるということです。介護職も、人の生活や人生を支える仕事。この話を聞いて、プレッシャーを感じてしまう人は多いでしょう。この牧師はさらにこう語っています。
「宗教者は聖人ではない。神仏に頼らないと生きていけない弱さを持っている。だから、路上の人を他人とは思えない」
「人と出会うことで、自分が何をせないかんか(しなければいけないか)って考えさせられ、自分が何のために生きているかが見える。人のために支援をやっていると思われるかもしれないけど、自分のためでもある。何のために生きているか、はっきり教えてもらえる場面がある」
どうでしょうか。介護職と通じるところはないでしょうか。
「対応できなかった」と後悔しないために
人を支える介護の仕事を、単なる「業務」と考えていたら、とてもこんなプレッシャーを背負うことはできないでしょう。ただ、やらされ感ばかりが募り、心身共に疲れ果てていくばかりです。しかし、介護とは「その人と共に生きる」「その人と共に歩く」ための方法を考え、実践することだと思えたら?「やらなくてはいけない」ことが、自分の「やれること」や「やりたいこと」に変わってくるかもしれません。
何かが起きたあとで、「もっとこうしておけば…」と後悔するのはつらいことです。「対応できなかった自分」をあとから責めることにならないよう、「やれること」を探し、取り組んでいきたい。そして、プレッシャーを上回る手応えを得られるようになりたいですね。
さらにいえば、1人で背負いすぎないことも大切です。いま、各地域で「地域包括ケア」の仕組み作りが進められています。これは地域みんなで、互いに支え合えるようにすることです。介護職はその中心的な存在ですが、介護職だけで支えるわけではありません。地域住民を含め、いかにして多くの人に“支え手”になってもらうか。これからの時代、介護職はそうした視点を持って周囲に関わっていくことが、大事な役割の一つになるでしょう。
<文:宮下公美子 (社会福祉士・介護福祉ライター)>
*1 ケアマネ全国調査 「介護殺人・心中危惧」55% 家族の疲労、強く懸念(毎日新聞 2016年2月28日)
*2 ストーリー 四半世紀、牧師の取り組み 路上生活者の支援 (毎日新聞2016年2月21日)