都心の病院で第一線の医師として忙しく勤務していた平山登志夫さん。千葉郊外の団地が林立する地区へ移ることになったとき、多くの人は「もったいない」と反対しました。ところが、行ってみれば、地域の問題が山積。医療の枠を超え、次々に老人ホームやその他介護サービスを担ってきました。日本初の「介護老人保健施設」7施設のうちのひとつをスタートさせた医師、ということでも、よく知られています。
なぜ、身を削ってまで? 50年近く、団地の人々の健康と暮らしを支えてきたお話は、介護の原点を再確認し、心洗われ、襟を正したくなるお話ばかりです。4回の連載で、じっくりお聞きください。
○●○ プロフィール ○●○
平山登志夫(ひらやま・としお)さん/平山病院 院長
1931年、千葉県生まれ。医療法人社団・社会福祉法人 晴山会理事長。55年日本医科大学卒業後、聖路加国際病院にインターンとして入局。以後同病院、銀座菊池病院に勤務。68年、千葉市花見川地区に平山病院を開設。病院を退院しても団地での生活が困難な高齢者を目の当たりにし、77年に特別養護老人ホームを開設。現在、千葉県を中心に病院、特別養護老人ホーム、介護老人保健施設、障害者養護施設などを展開。全日本病院協会常任理事、全国老人保健施設協会顧問。91年と99年に厚生大臣表彰。09年旭日双光章を受章。
医療法人社団・社会福祉法人 晴山会ホームページ
「病気はみんなで治すものだ」
聖路加国際病院でのパーティー風景。一番左が平山さんが尊敬する橋本院長。
――ご実家は広く事業をされていて、平山さんは本家の長男ですね。家の後継ではなく、医師になられたのは、どんないきさつですか?
うちは、植物の種の問屋をやっていました。祖父は苦労人でしたがやさしい人で、私をとてもかわいがってくれました。恵まれた子ども時代を送りましたね。
ところが、中学2年で終戦になると、農地解放、財産税など、戦前とは様変わりしました。「これからは、家の仕事を継承するのではなく、自分の力で成し遂げられる仕事をしなさい」と言われました。
我が家は、本家の長男といっても、わりあいに好きなことができたんです。弟たちもいましたので、学校の成績がよかった私は、医者になったらどうか、ということになりました。
――医学部を卒業され、聖路加国際病院のインターンとして、医療の仕事をスタートされました。
聖路加のインターンの試験はなかなか難しかったのですが、幸い合格しまして、仲間とともに寮生活をしながら、働くことになりました。仲間とは24時間いっしょなわけですから、仲良くもなりましたし、常に刺激し合いながら、医療に取り組みました。
当時の院長はとても厳しく、まっすぐな人でしたね。「君たちは、インターンといえども、患者さんには医師として認められている。しっかり勉強して、どんな病気にも対処できるような力を身につけなさい」と。また、聖路加国際病院は、キリスト教の精神のもとに診療を実践しています。当時の日本の病院の中では異色かつ先進的な風土がありました。
「病気は医者が治すものではない。医者は手術をしたり、薬を処方したりするが、それだけでは治らない。看護師、検査技師、助手の人たちも含め、みんなで治している。それを忘れるな」と、院長に叩き込まれました。
――まさに、「多職種の連携」が50年前から行われていたのですね。聖路加国際病院といえば、日野原重明先生が理事長をされていますね。
私がインターンからレジデント(*)になる頃、日野原先生はアメリカ留学から戻ってきたばかりでした。聖路加のインターンやレジデントは朝6時半ぐらいからミーティングをするのですが、日野原先生はその前に回診をするのです。我々も当然、先生の回診のときには同席します。また、夜10時すぎに戻ってこられるので、そのときもいなければなりません。寝ている暇もないくらいでした。
そして、若い医師たちにさまざまな質問をし、「なんでも答えられなければいけない」と言われるので、日々勉強と業務の確認に追われました。また、「医者は患者さんをみてやるという上からの目線がある。しかし、患者さんも知的な方、経験が深い方もたくさんいらっしゃる。患者さんに対するマナーを磨かねばならない」とも言っていました。こうした聖路加での教えは、のちのちの指針にもなり、非常にありがたく思っています。
*インターンからレジデント… 卒業後、初期研修を受ける研修医をインターン。インターンを経て、より専門領域の研修を行う研修医をレジデントと呼ぶことがある。
千葉のマンモス団地地区で救急病院の要請を
聖路加国際病院時代。同期のインターンと看護師さんと一緒に。一番左が平山さん
――その後、東京・銀座の病院の外科部長をされていましたね。
都心の病院は患者さんも意識の高い方が多いですし、土地柄、外国人との抗争で負傷して担ぎ込まれるような人もいて、刺激的な日々でした。
ここで外科部長というポジションを与えてもらっていたので、日々やりがいがありました。が、「千葉の花見川地区に新しく団地ができましてね。急に人口が増えて、町にひとつしかない診療所ではまかないきれない、救急病院を作ってくれないか」、という話が、突然やってきました。
団地は8000戸、住民は2万数千人。小さな診療所ひとつだけで、どうやって対処しているのだろうと、驚くばかりでした。困りはてて、住民のグループが自治体にかけあったということです。そこで自治体が、医師会を通じて、要請をしてきたわけですね。そして、私を知る先生が、私を推薦してくれた、というわけです。
迷わなかったか、と言われれば嘘になります。都心のこの病院を自ら辞めて、千葉のはずれまで行くのか、と。花見川の団地はどの駅からも遠く、陸の孤島です。コンクリートジャングルという言葉がピッタリの、味気ない団地群が立ち並ぶだけです。
私は、尊敬する方に相談に行きました。すると、その方は、行きなさい、と。「医者がいなくて困っているのでしょう。あなたは、困っている人に必要とされているのではないですか?」と。
これはもう、行くしかありません。医師仲間からは、「将来まで約束されている都心の病院での地位を捨てて、田舎の団地の医師になるのか」と言われました。心配して、反対する人ばかりでした。
けれど、おっしゃるように、困っている人がいれば、助けるのが医師の本分です。大病院の医師なら、いくらでもなり手はいます。誰も行かないところにこそ医療が必要だと悟り、私は決心し、花見川へ行くことにしました。1968年のことです。
――病院を建てて完成してから、当地に趣いたのですか?
いえ、完成を待つよりも、とにかく来てくれ、と。とりあえず団地の一室で診てくれないかと言われ、あわてて荷造りをし、引越しをしたのです。着いて荷解きをしている最中に、もう患者さんが来るという状況で、私は白衣に着替えてすぐに診療を始めました。
次回は花見川地区で特別養護老人ホームを設立するお話です。