生から死へ、シームレスに支援するための「看仏連携」
2020年1月、新聞の見出しに「看仏連携」という見慣れない言葉がありました(*)。
これは、大阪市内のある寺院が呼びかけて、寺院や僧侶、看護や介護の関係者が集い、地域包括ケアで連携すると何ができるのか?という問いのもと、行った催しです。
今の日本は「多死社会」と言われますが、「死」に対する拒否反応や恐れる気持ちは根強くあります。
超高齢社会となり、医療の現場も変わってきていますが、それでもやはり「死=医療の敗北」と考える医療職は少なくありません。
看取りが増えつつある介護の現場でも、なお、「死」を恐れる介護職は多いことでしょう。
そんな状況の中、「死」と近い立場にある宗教関係者と、「生」を支える医療や介護の関係者が連携する。
そして、
「生を全うした結果としての死」を共に考えていく。
それができれば、医療・介護関係者も過剰に「死」を恐れず、支援対象の人が「生」を終えるその日までシームレスに支えていけそうです。
「看仏連携」の催しは、そうして、過去、あまり交わることがなかった医療や介護と宗教の関係者、約100人が集合。地域包括ケアシステムの一員として、「看取り」や「グリーフケア」、「アドバンス・ケア・プランニング(人生会議)」※、「終活」などについて話し合い、連携していくことを模索する試みだったようです。
※アドバンス・ケア・プランニング(人生会議)……治療や療養のあり方について、患者とその家族、医療、介護など支援関係者が一緒に話し合う自発的なプロセス
「介護・医療・宗教」多方面から看取り期を支援する意味
人が「死」を恐れ、忌み嫌うのはなぜでしょうか。
まだ自分が経験したことがない事柄だからでしょうか。そしてまた、「死」によって何もかもが失われて「無」になり、取り返しがつかないと思うからでしょうか。
利用者の看取りのとき、「死」を遅らせるために何かできることがあるかもしれない。しかし、自分にはどうしたらいいかわからない。何もできることがない。もうすぐ、ケアしてきた利用者が永遠に失われてしまう――。
介護職の場合、そんな
不安や無力感と向き合うことになり、「死」を恐れるのかもしれません。
在宅で多くの人を看取ってきた在宅医が、
「死を目前にした人に対してできることは、医師も看護師も介護職も家族も変わりはない」と言うのを聞いたことがあります。
近づく「死」を前にすれば、医療も無力だと、その医師は語りました。
できるのは、ただそばに付き添うこと。
「ここにいるよ」と声をかけること。
そして、苦しそうにしたときに、手を握り、さするくらいのこと。
それをするのは医師である必要はなく、家族や介護職が共にいるだけで、本人には十分だと言うのです。
しかし実は、尽きていく命を見ながら何もせずにそばにいるのは、非常につらく、苦しいものです。何もすることがない、できることがないという無力感と向き合うことは、誰にとっても容易ではありません。
そうしたときに力を発揮するのが、僧侶などの宗教家です。
生きること。死ぬこと。そして、医療職や介護職ではなかなか語れない、死んだあとのこと。
看取りの段階にある本人やその家族と、ひるまずにこうしたことを共に語り、気持ちを整理してもらうための支援ができるのが宗教家です。
看取りの時などに、医療職や介護職が担いきれない部分を支える、「臨床宗教師」という職種もあるそうです。
21世紀は「こころの時代」とも言われています。
これからは、医療や介護、看護と、宗教がもっと連携していく時代になるのかもしれません。
*「看仏連携」の可能性(毎日新聞 2020年1月31日)