■書名:ルポ 希望の人びと ここまできた認知症の当事者発信
■著者:生井 久美子
■出版社:朝日新聞出版
■発行年月:2017年2月
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認知症への認識が変わる、認知症の本人が語る希望の物語
ドイツの精神科医アルツハイマー博士が初めての症例として、アウグステ・データーという女性について学会で発表したのは1906年のこと。
そこから名づけられた「アルツハイマー病」も含めた「認知症」と呼ばれる病気に対し、私たちはどのようなイメージを持っているだろうか?
「何もわからなくなる」「人格が崩壊する」「人生の終わり」「本人はわからないからいいが、徘徊、暴力、奇行、妄想などによって家族は苦しむ」…。知識がなければ、絶望的なことばかり浮かんでしまう人も少なくないであろう。
そんな認知症の悲観的なイメージが見事に覆されるのが本書である。
2014年に、認知症の人たちによる日本で初の当事者団体が生まれた。
何もわからないはずの当事者が、壇上に上がって自らの病のことを語り、首相と対談して政策を提言。その活動は国際的にもつながり、社会や地域、医療・ケアの現場を大きく変えようとしている。
本書では、このような「本当にこの人たちは認知症なのか」と、にわかには信じられないような人たちを次々と紹介している。
筆者の生井さんは1994年に秋田の地方病棟で、付き添いさん(入院患者の身の回りの世話をする人)の手伝いをしながら過酷な現場を取材。そのほかにも、東日本大震災・福島原発事故で、全村避難となった飯舘村に残された特別養護老人ホームの取材も行った。
多くの人に出会い、多くの場に立ち会ってきた20余年に蓄積された事実から本書は編みだされた。
<人は、死に向かって生きている。出会いがあれば別れがある。そして死の前に認知症もある。しょうがない、避けがたいことがおきるのが人の定めだ。認知症の苦悩は、生きていればぶつかることの一つなのだと実感した。問題は、そこからどう前を向くか。その生き方に、当事者の発信する姿に、私が胸打たれ追い続けるのは、それが認知症を超えて、人としてどう生きるか、本質的な問いかけや言葉だからだ。>
本書に登場する人たちは、みんな希望にあふれている。認知症になって不便になったけれど、不幸ではないと言う。
失われた機能・能力を嘆くのではなく、残された機能・能力を最大限に利用して毎日を充実させているのだ。
ITを巧みに使えば「記憶はなくとも記録は残せる」と意欲的に発信する人、「覚えられないけれど、しゃべることはできるから」と当事者の思いを語るなど、登場人物はとてもポジティブだ。
しかし、この人たちも認知症を告げられた時は、誰もが深い絶望を経験している。絶望のどん底から這い上がる苦難は、想像以上のものだろう。
そこから希望を見出すまで支え続けた家族や医療・介護スタッフの存在は重要だ。
本書に登場する精神科医は、ケアが深く届けば、その人の知的な部分は崩れることが少ないのではないかという。
また、この医師は「悲惨といわれる症状は、大半がこの病への誤解、本人や周囲の状況によって引きおこされ、つくられたものといえる。病とケアのあり方を根底から考え直す必要がありますね」とも述べている。
認知症は、偏見や先入観に影響された「社会的病気」であるというこの意見は、今までの認知症の認識を大きく変えるのではないだろうか。
言い換えれば、私たちの考え方次第で、認知症の進行を食い止める余地があるということだ。
その第一歩となるのは、認知症当事者の身近にいる家族や介護スタッフのサポートだろう。
「私たちのことを、扱わないでほしい、物のようにね。一生懸命生きたい気持ちをいっぱいもってる、そんなふうにみてほしいです」とあるフォーラムで語られたことばには、当事者からの切実な思いが感じられる。
このように、自己を語って前向きに歩み始めた認知症当事者が増えてきたことは大きな進展だ。しかし、以前と変わらない状況にある介護の現場も存在するだろう。
<よい医師やパートナーに巡り合い、家族や友人などにも恵まれた人だけが認知症になってからも人生を切り開けるのではなく、だれもが安心できるようになるにはどうすればよいのか。なお道は遠く容易ではない。>
しかし、一方で生井さんは「現場で日々奮闘する人たちは、きっとこの本のめざす方向の一番の理解者だと信じている」とも語っている。
介護にあたる人たちの理解と力が、今後ますます必要とされることをこの本からぜひ学んでもらいたい。
著者プロフィール
生井 久美子(いくい・くみこ)さん
京都市生まれ。朝日新聞記者。上智大学文学部心理学科卒。1981年、朝日新聞社入社、仙台支局、政治部をへて学芸部、生活部などで医療、介護、福祉の現場を取材。編集委員、記事審査室の後、報道局夕刊企画班記者。