福祉の世界を視野に、情熱を持ってキラキラと輝いて生きている「情熱かいごびと」。今回から4回にわたり、吉藤オリィさんのインタビューを掲載します。人と人とのコミュニケーションのためのロボットを開発し、高齢者や障がいのある人、病気の人の孤独を癒すことを生涯の目的として突き進む。世界が期待する若手科学者です!
○●○ プロフィール ○●○
吉藤オリィ(本名 吉藤健太朗)さん
株式会社オリィ研究所 代表取締役所長。
小学校5年~中学2年まで不登校。中学のときにロボット技術に感動し、工業高校へ進学。在学中に電動車椅子の開発に携わり、2005年にアメリカで開催されたインテル国際学生科学技術フェア(ISEC)にて団体研究部門Grand Award3位を受賞。福祉機器ロボット開発の道を志す。工業高等専門学校で人工知能を学んだのち、早稲田大学創造理工学部へ進学。入院や療養中の人を癒すロボットの研究開発、講演活動などを行う。2011年からは早稲田大学インキュベーションに入居、制作したロボットやサービスを必要としている人に届ける活動を開始し、自らの研究所も設立。
*掲載内容は取材時(2014年)の情報となります。
孤独を癒し、人と人とをつなぐロボット
――今、国内だけでなく、海外でも話題になっているOriHime。孤独を癒すロボットだということですが、具体的にどういうロボットなのですか?
OriHimeは、孤独を感じる人が自分の分身として、親しい人と一緒に過ごし、その場にいるかのように感じ、思いや経験を共有できるロボットです。たとえば、入院している人、高齢者で足腰が弱っているひとり暮らしの人などは、なかなか家族や友達に会えませんよね。でも、そういう方こそ、孤独を感じ、みんなに会いたいのです。
そこで、このロボットを、離れて過ごす親しい人たちの間に置きます。そして、病院や家で、パソコンやiPad、iPhoneからインターネットにつないで起動させます。
OriHimeにはご覧のように、目と、耳と、口がついていますので、操縦する人が見たいものを見るために顔の方向を動かし、音を聞き、それらの情報を感じ取ることができます。つまり、親しい人と同じ空間にいる気分で、同じものを見て、音を聞いて、いっしょに会話をすることができるわけです。連れて行く人たちも、病院や家にいる操縦者といっしょに遊んでいる気分になれます。
家族旅行のときにはいっしょに旅行に連れて行ってもらい、旅行を体感できますし、学校や塾の机の上に置けば、授業を受けることができ、先生の質問に答えたり、休み時間に友達とおしゃべりすることもできます。
そんな、孤独を癒す遠隔操作ロボットがOriHimeです。
OriHime -mini- 。腕や足などのオプションが追加可能。
OrihimeはiPadなどで簡単に操作できます。
――寂しさを癒すために、人工知能を使った「癒しロボット」とともに遊ぶ、というやり方もありますよね。
それとはまったく違うわけですね。
はい。ロボットに癒してもらうのではなくて、ロボットをデバイスとして使って、人と人とをつなぎ、人に癒されるのです。
かつて私は人工知能にすごく興味を持って、工業高校を卒業後、工業高等専門学校(高専)で1年間、夢中になって開発をしてきました。けれど、自分の中で、だんだん違和感を覚えてきたんですね。
私は生まれつき体が弱く、小学校5年から中学2年までは不登校でした。心身ともに弱って入院し、1週間まったく起きられなくなったりしました。そんなとき、
自分を癒してくれたのは、やっぱり人だな、という経験があったんですよ。心配してくれる家族だったり、見舞いにきてくれる先生や友達だったり。本当の癒しは人と人との間、社会にしかないと思うんですね。ロボットと話しても、本当の意味では癒されないと思うのです。
好きなことには、とことんのめり込む
久保田先生と一緒にプロジェクトで開発した「傾かない・倒れない電動車椅子」
――そもそも、ロボットに興味を持ったきっかけは?
物心ついた頃から工作が好きでした。折り紙も大好きで、9歳になると自分でデザインする創作折り紙も始めました。趣味が高じて、18歳のときには奈良県文化折紙会を立ち上げて、法隆寺で世代や地域を越えた人たちと、折り紙を楽しんでいます。
ただ、自分はきっと、とても幼いんですね。クラスの仲間は小学校高学年になると、もっと大人っぽい遊びを楽しむのに、もっぱら物づくりだけにのめりこみ、授業も聞かず、飽きて教室を歩き回るような子どもでした。だんだん居場所を失い、保健室登校になり、不登校になり……。ひたすら家で折り紙を折るような生活だったのですが。
そのさなか、母親が虫型ロボットコンテストのことを知り、「応募してみないか」と誘ってくれたんですね。それで、ロボットを作って応募したら、優勝。そこから、のめりこみました。
「ロボフェスタ関西2001」で物づくりの巨匠・久保田憲司先生を知り、久保田先生のいる工業高校に行きたいと一念発起して勉強し、入学。先生が3年生たちといっしょに電動車椅子を制作していたので、そのプロジェクトに入らせてもらって、車椅子の開発制作に没頭しました。
朝6時に家を出て、帰るのは23時。そんな生活を卒業まで続けたのが、僕の基礎になっていますし、福祉の世界につながるきっかけにもなっています。
――好きなことしかできないタイプですか(笑)? そして好きなことにはとことんのめりこむタイプですか?
そのとおりです(笑)。だから、その後に入学した高専で人工知能に意義が持てなくなってからは、学校にいることができなくなって。せっかく入学させてくれた両親には申し訳ないと思いつつも、退学してしまいました。
――その後、早稲田大学に入学されたのですよね。
日本科学技術チャレンジ(JSEC)で文部科学大臣賞&アジレント・テクノロジー賞を受賞したことで、AO受験ができ、入学を許されました。受験勉強どころか、基本的な勉強も足りていなくて、早稲田大学を「ハセダダイガク」と読むような私でいいんですか?という感じでしたけれど(笑)。
しかし、入学したらしたで、また、「何か違う」と思い始めてしまったのです――。
第2回に続きます。