持病の悪化ではじめての介護の職場を1年で辞めることになったN・Eさん。次に、実家のそばで2度目の就職をしました。認知症に詳しい介護福祉士として勤務できると思っていたけれど、待ち受けていたのは、挫折。しかし、学生時代の気弱なN・Eさんではありませんでした。どう乗り越えていったのでしょう。第2回は、Nさんの奮闘ぶりをお伝えします。
*N・Eさんの「私が転職した理由」…1回目、2回目、3回目、4回目(最終回)はこちら
N・Eさん(36歳)の転職経験
短大の福祉学科を卒業後、2年間は飲食店のアルバイト生活
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実家のある群馬県の介護老人保健施設の認知症専門棟で1年勤務
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実家からより近い老健に転職、5年間勤務
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介護福祉士取得のための専門学校で教員助手として1年間勤務。激務で体を壊し、退職
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東京の老健に4年間勤務
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ジョブローテンションを活用し、同じ法人でさまざまな職種を半年間経験
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訪問介護ステーションにサービス提供責任者として2年間勤務
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群馬県に戻り、社会福祉法人に就職。最初の1年はショートステイの生活相談員。次年度から特別養護老人ホームで、念願のケアマネジャーとして勤務
緊急会議で、異動を告げられて
2つめの職場も、老健を選びました。
当時から、インターネットでさまざまな転職サイトに登録し、個別に事業者のホームページなども調べて、いつも求人の最新情報を集めていました。なるべく自分に合った職場を探したいですからね。そんな中、前職が生かせそうな老健を見つけました。
前職では、老健の認知症専門棟で勤務していたので、面接のときにそれをアピール。新しい職場でも認知症専門棟での勤務にさせてもらいました。専門的な技術や経験を持っている者として採用されたんですね。23歳と若かったですが自分としては、意気揚々。一人前のつもりでした。しかし、周囲はそうは思ってくれていないようでした。
入職して9カ月たったとき、先輩から「緊急ミーティングをするから来て」と言われました。会議室に行ってみると、怖い先輩たちが顔をそろえていて、いやな予感が。すると、中でも怖い先輩が口火を切りました。「Nさんは自分では仕事ができるつもりでいるかもしれないけれど、ハッキリ言って、力不足です。迷惑してるんです。スタッフの和も乱れますし、一般棟に移ってもらいますから、よろしく」。
反論しようにも、全員がそのつもりで、有無を言わせない雰囲気です。ずいぶん前からその方向で話を進めていたようで、すでに決定事項。私ひとりの力では、どうにもなりません。歯をぐっと食いしばり、荷物をまとめました。
看護師さんには、「気は5倍使うものよ。あなたは利用者さんと仲良くするのは上手だけれど、スタッフとも同じような気持ちで仲良くしなければね」と諭されました。私の態度が生意気だと思われたのでしょう。
たしかに、私はスタッフよりも利用者さんのことをまず、考えてしまいます。スタッフを批判するつもりはありませんでしたが、知らないうちに気に障ることをしていたのかもしれません。自分にも悪いところがあった、と反省しました。でも、突然こんなことになるなんて…やりきれない思いです。認知症棟には、自分の味方はいないんだな、と実感しました。
一般棟のリーダーは、男性でした。「僕も教えるのははじめてなんだよ、よろしくね」ととてもソフトに接してくれました。そして、もう十分にわかっていることも、手取り足取り、ていねいに教えてくれました。私は罪滅ぼしのような気持ちで、一から教えてもらいました。
しかし、不思議とつらい気持ちにはなりませんでした。むしろ、「負けないぞ、見返すまで、絶対に辞めない!」と心に誓いました。
今度は、つるし上げられないように、少し控えめに、と心がけました。その分、社内の研修会に積極的に出席したり、介護福祉士会に所属し、勉強会や講演会に片っ端から出席したり。「Nさんはやっぱり力がある」と認めてもらえる地盤を作りました。その上で、研修会を企画したり、レクリエーション委員会の委員に立候補したり。社内の企画運営のお手伝いを買って出ました。
そのうち、新人教育を任されましたし、社内企画募集で年中行事の提案をして表彰されるなど、周囲も私を認めてくれるようになったのです。やっとここまで来た。これからはもう少しラクに働けるはず。でも、私の興味は次に移りました。
介護現場から、福祉専門学校の教員助手に転職!
介護福祉士会に所属し、ほとんどすべての勉強会や講演会に出席するうち、教えてもらうことと同時に、教えることにも興味を持ちました。そして、介護福祉士資格取得のための専門学校で、教員助手の仕事があることがわかり、がぜん挑戦したくなったのです。
折よく、県内で伝統のある専門学校で、募集をしていました。1年間教員助手をやり、その後教員を目指せるということで、さっそく面接を受けて合格。「教える」ことを仕事の中心にできる職務に、心がはずみました。
教えることが好きだから、そのための準備は、苦になりません。介護の現場で煮詰まることもありましたから、教員という立場で働けるのなら、本当にありがたいことだと思いました。
しかし、学校の業務ってすごく忙しいんですね。平日は通常の授業、土日はオープンキャンパス。入学試験も、一般試験のほかに、AO受験や推薦と、何度もあって、そのたびに駆り出されます。ほとんど休みの日がなく、もともと甲状腺が弱かった私は、だんだん体力的につらくなってきました。
朝、だるくて起きられない。なんとか起き上がっても気力がない。わがままみたいだし、さぼっているみたいで、自分でも気が引けるのです。しかし、体がまったくついていきません。専門医には、「とにかく仕事を休んだほうがいい」と言われ続けました。「体を壊すということは、その仕事をやめろ、というサインではないですか?」とも言われて。
なんとか続けたい――。そう願っていましたが、1年間がんばったところで、本当に体がガタガタになり、ついに辞表を出すことになりました。
敗北感を感じましたが、休まなければどうにもなりません。半年間ゆっくりし、ようやく動けるようになったとき、「故郷を出よう」と決心しました。
勤めていた専門学校は、県内でも伝統校と言われるところ。県の主な老人ホームには、卒業生がたくさんいます。そこに、自分があとから入っていくことに躊躇しました。誰も自分を知らないホームに行きたい。それには、東京だ、と。
またネットを駆使して、職場を探し始めました。
写真はイメージです。
次回は東京を新天地に、就職活動を始めるNさんをお伝えします。
*N・Eさんの「私が転職した理由」…
1回目、2回目、
3回目、
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